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2012-04-11 [あまり美しくはない風景]

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今わたしは自動車学校へ通っています


大型自動二輪を取得のためなのであります
きょうでまだ2日目、時間にして3時間目を終えたところです
30年ぶりに乗ったオートバイにいろんな面で驚いてます。。
先日の教習をふまえ、きょうは乗車前に「体がつった時に飲む薬」を
あらかじめ飲んでのぞみました(笑)。。


妙な汗をかいたりして・・ 若くないのを実感してます((笑))。。


震災から1年を過ぎますが、ここの教習所もところどころ補修しながら営業しているようです
時々作業員やら重機やらコースに出てまいりますので、それはそれは実にリアルな
本当の環境に近い雰囲気があります(笑)。。


D300 シグマ3014 「私の3.11」の続きもあるのですが、それはそのうちに・・ と、思っています


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2012-03-12 [あまり美しくはない風景]

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いろんなドラマがあります。。  昨日の政府主催の追悼式で宮城県遺族代表の言葉の述べたのは石巻の女性でした。
はずかしながら・・ 今朝の新聞を読むまで私は読まれた女性のことをなにひとつ知りませんでした。。



涙が何度もこぼれた。政府主催の追悼式で11日、遺族の言葉を述べた石巻市の会社員奥田江利子さん(47)。
長男智史さん=当時(23)、長女梨吏佳さん=当時(9)、両親の4人や親族計20人を失った。自分だけが生きる
苦しみ。「限りない絶望」の中で祭壇に語り掛けた。「子どもたちが望む母でいよう」と。(下記に奥田さんの言葉全文)

家族の新しいスタートになるはずだった1年前のあの日。車の修理工場勤務の智史さんが昼休み、市の北上総合
支所に妻江利香(28)との婚姻届を出すことになっていた。前の週の3月5日に結婚式を挙げたばかり。江利香さんの
おなかの中に新しい命が宿っていた。

地震のとき、奥田さんは市内で江利香さんと食事していた。車で自宅に戻ろうとしたが、道が悪くて前へ進めない。
「きっと智史が梨吏佳を守ってくれている」。そう信じて、妊婦の江利香さんを登米市の実家へ送り届けた。
「大丈夫?」。江利香さんには、智史さんが地震後送ったメールが届いていた。

14歳離れた智史さんと梨吏佳さんは仲が良かった。漫画家になるのが夢だった梨吏佳さん。2人で好きなアニメを
録画して一緒に見ていた。智史さんが妹の宿題を点検することも。

地震の後、智史さんが支所に向かう姿が目撃されていた。指定避難場所だった支所は妹がよく放課後に遊んでいた
場所だ。津波にのまれ、54人が死亡・行方不明に。支所は壁が抜け、無残な姿になった。

智史さんは翌日、梨吏佳さんは約1ヶ月後に見つかった。2人の眠ったような顔。梨吏佳さんはお気に入りの青い
トレーナー。奥田さんがあの日の朝、「忘れ物ないの?」といつものように学校に送り出した時の姿だった。支所から
約100メートルの自宅も流された。

つらくて何をしていても涙があふれる。「寂しい。みんながそろっているお墓に行くと心が安らぐ」とも。

智史さんが支所に出したはずの婚姻届が見つからない。奥田さんと江利香さんは、届を受理してもらおうと必死だった
「家族として認めてもらうことが心の支えだった」。何度も市役所や法務局を訪れ、昨年6月にようやく認められた。

元気な産声を聞いた7月、震災以後初めて心の底からほっとできた。智史さんにそっくりの大きな瞳の女の子だ。
江利香さんは、智史さんと梨吏佳さんから1文字ずつ取って「梨智(りさと)」と名付けた。

「息子たちは私たちに生きる意味を残した。孫の成長が希望へつながっている」。追悼式で、奥田さんは梨智ちゃんに
託す思いを語った。

以上・・・  
2012.3.12付け 河北新報・本紙から。 政府追悼式・石巻の奥田さん「遺族の言葉」




以下・・ その政府追悼式での遺族代表・奥田さんの言葉・全文

「悲しみを抱いて」東日本大震災では大勢の人が亡くなりました。そしていとおしい人を思い続けるたくさんの人が
残されました。

私は津波で甚大な被害を受けた、宮城県石巻市北上町に2人の子供と両親とで住んでいました。震災の1週間前
23歳だった長男智史の結婚式でした。息子夫婦が入籍日に選んだのは3月11日でした。2人はわが子の誕生を
楽しみに、人生で一番幸せな時を迎えていました。私たち家族もその将来に向けてささやかな幸福を感じておりました
震災の日も、いつもと変わらない朝を迎えて、変わらない明日が来る、来ないなんて思いもしませんでした。

地震の後、息子は家族の身を案じ、妹と祖父母が身を寄せていた近くの指定避難所に車で向かったそうです。
津波が海から数メートルの避難所を襲い、たくさんの尊い命をもぎ取り奪っていきました。窓からは、迫りくる波が
見えただろうに「どんなに恐ろしい思いをしたか」。それを思うと、胸が締め付けられます。ただただかわいそうで
かわいそうで、いたたまれません。

次の日、避難所から100メートルの自宅のあった場所近くで息子は見つかりました。一緒にいたはずの娘は家族の
一番最後、1ヶ月にやっと見つかりました。妹をその腕の中で守っていたかのように手を組んで水たまりに横たわって
いました。「おかぁ、俺なりに頑張った」。そう言っているようで「おまえ頑張ったな。偉いぞ。皆と一緒にいてやったんだ
よね」。何度もそう話かけました。冷たくなった夫にすがって泣き続ける嫁。こんな残酷な思いをさせてしまって本当に
申し訳なくて済まなくて、残されたこの子らがふびんでなりません。身重の妻を残して逝った息子の気持ちを思うと
どんなに無念だったか、この母が代わらせてもらいたかったです。

見渡す限りの惨状に地獄はここだと思いました。私の大切な家族。強くて厳しかったけれども芯の温かだった母。
一家を辛抱強く支えてくれた父。歳の離れた妹を心底かわいがり父親代わりをしてくれた息子。心優しく、その笑顔
が我が家の明かりだった娘。14年ぶりに授かった娘は家族の宝物であり私の生きがいでした。

受け止めがたい現実、やり場のない怒りと悲しみ、そして限りのない絶望。最愛の人を失ったというのに自分が生きて
いるという悲しみ。「生きることがつらい」そう思う申し訳ない気持。生きていることがなんなのか、生きていることが
なんなのかを考えることさえ出来ない日々が続きました。

愛する人たちを思う気持がある限り私たちの悲しみが消えることはないでしょう。遺族はその悲しみを一生抱いて
生きていくしかありません。だからもっと強くなるしかありません。涙を越えて強くなるしかありません。今、私はこう
思うようにしています。「子供たちが望む母でいよう」「これでいいだろうか」「こんなときに両親はなんと言うだろう」
そう思うことで亡くした家族と「一緒に暮らしている」そう感じていたいからです。

絶望の中に差す光もありました。息子は私たちに生きる意味を残しました。忘れ形見の初孫が(昨年)7月に生まれ
元気に育っています。その孫の成長が生きる希望へとつながっています。

最後に被災地の私たちを支えてくださった多くの皆さん、日本全国、世界各国の皆さまに心から感謝申しあげます
皆さまからの温かな支援が私たちに気力と希望を与えてくださいました。だから今日までこうして過ごして来られました
その恩に報いるには、私たち一人ひとりがしっかりと前を向いて生きていくことだと思っています。差し伸べてもらった
その手を笑顔で握り返せるように乗り越えていきます。本当にありがとうございます。

以上・・・
2012.3.12付け 河北新報・本紙 東日本大震災1年・追悼式 3県遺族代表 宮城・奥田さん、から。。
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2012-03-09 [あまり美しくはない風景]

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南光町から煙が上がる東松島市を見る・・。。  丁度一年前・・ 3.11の2日前・・ 震度5強が襲った・・。。
今思えば・・ あの5強のときに・・ 30センチの津波がもう少し高かったら・・ 2日後の本震にも迅速で・・
適切な対応がとれていたかも・・ 知れない。。 でも・・ それは・・ 誰もわからなかったことだ。。
結果的に前震になった3.9の地震、テレビカメラの前で号泣する漁師の姿が忘れられない





午後の診療中のこと。大きな地震だと思って、治療台の患者さんの背もたれを起こすと、直後に停電した。治療機器は
ボルトで強く固定してあるので倒れる心配はない。2人のスタッフ(歯科助手)とともに床に座りこみ、揺れが収まるのを
待った。宮城県沖地震も宮城県連続地震も体験しているが、激しさと長さは全然比べ物にならない。

揺れがいくらか収まってから外に出てみると、やはり出てきた人たちで騒然としている。顔見知りのお母さんが
お子さんを2人連れて、大曲浜(松島基地の海側)へ向かって歩いていった。「お気をつけて」とお声をかけたが
まさか津波が来るとは思っていなかった。後のしらせでその方々が亡くなったと聞き、止めることができなかったのを
残念に思う。

来院していた患者さんは男性2人がすぐ自宅へ帰り、1人暮らしのおばあちゃんは落ち着くまでここで様子を見ることに
なった。室内でラジオを点けたが、津波の情報はなぜか聞いた覚えがない。防災無線も聞こえなかった。医院前の
道路は45号線方向も大曲浜方向も渋滞し始めていた。すぐ北側の大曲小へ児童を迎えに来た車も多い。

外が一段と騒がしい。走って逃げる人が「津波だ!」と言う。浜の方角を見ると、空が土煙のようなものでかすんでいた
ここまで来るなんて・・・。医院に飛び込み、スタッフには先に大曲小へ行くよう指示。おばあちゃんを背負い走り出ると
水しぶきが見えた。道はなお渋滞。「津波だ、車を降りて逃げろ!」と教えながら走る。理解した人は車を捨てて逃げた
が、そうしなかった人もいた。校舎に入って3階の窓から見ると、もう波がグランドに寄せていた。児童を迎えにきた車が
浮かんで校舎に打ち寄せられている。

校舎内では、1教室に40~50人が集まった。人は廊下にもあふれており、全体では少なくても300人くらいいたのでは
ないだろうか。先生は児童の点呼確認をしていた。1教室に1つずつ配られたラジオに耳を澄ます。寒い、外した
カーテンは、すべて高齢者や子供たちに使わせた。眠ることができず、窓に寄りかかって朝まで外を見ていた。
ヘリコプターが上空を飛んでいく音が何回も聞こえた。石巻の方角に火の手が見える。後日、門脇町と分かったが
暗闇で距離感がないので、あの火がこちらに延焼したらどうなるのだろうと心配だった。時計を見るたび、5分、10分しか経っていない。

ようやく明るくなってきて見えた眺めはひどかった。車、船、倉庫、何もかもめちゃくちゃだ。

朝6時。スタッフ2人とともに大曲小を後にした。スタッフはそれぞれ自宅を目指し、私は石巻の中心部で買物をして
いたはずの妻と息子を捜しに。妻からは地震の直後、「山下小学校に避難する」というメールが届いたが、顔を見るまで
安心できない。

石巻工高付近から先は水没して進めない。石巻好文館高の方へ歩ける道を探したが、暗くなってきたのでその日は
来た道を戻り、青葉中で一晩明かした。

震災から3日目。仙石線と日本製紙の貨物線上を歩いた。同じような人がたくさんいる。おじいちゃんとおばあちゃんが
手をつないで歩いていたり、知らない男の人が「同じ方向へ行きたい、一緒に歩きましょう」と言ってくれたり、みんな
何かと声を掛け合っていたのが印象的だった。

ようやく山下小へたどりつき、妻と息子を見つけ、結局そこに1週間避難し続けた。

医院は3月中に片付け始めた。外壁と骨組みは大丈夫だったが、治療の機器類はすべてダメ。カルテ棚も倒れ、多くが
泥だらけになってしまった。しかし、これは遺体の身元確認にきっと必要とされる。水に濡れただけのものは乾かす
などして、可能な限り保管に努めた。

玄関に自宅連絡先を書いて貼り出しておいたら、やはり家族を捜している人から、多い日には2~3件の照会が来る
ようになった。カルテが見つかれば提供し、提供したカルテと歯形が微妙に一致しないご遺体は、安置所に出向いて
直接調べたことも数回ある。歯科医として私にできることはこれくらいしかなかった、という思いだ。


以上・・・


地元紙 石巻かほく 2012.3.7付け 私の3.11      東松島市大曲寺前の医院で被災
      お年寄り背に避難 濡れたカルテ残し活用  歯科医師 川島弘さん(41)、から。。


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2012-03-08 [あまり美しくはない風景]

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震災の翌々日撮影・・ 日本製紙石巻工場敷地内・・ 写真左手奥から一気に津波が押し寄せたと思われる。。 
もしも・・ もしもここに工場がなかったら・・ 津波は更に市内へ奥へ流れ更にさらに多くの犠牲が出たとおもう。。 




地震発生時は、市役所で打ち合わせ中だった。立っていられない揺れに、ただごとではないと車へ戻りテレビを
つけると、大津波が来ると繰り返し伝えていた。

急いで工場に戻ると、社員たちが既に社宅や社の福利厚生施設「工場ハウス」がある南光町の高台へ、徒歩で
避難を始めていた。工場に1306人がいたが、午後3時10分ごろまでに全員が高台へ到着。避難状況を確認して
から自分も移動した。

津波は、海側の南浜町から、自分が立っていた南光町の高台まで、20秒ほどで一気に押し寄せた。遠くで白い
砂ほこりが立ったかと思うと、ゴーッというものすごい音を響かせ壁のように大きな黒い固まりが家や車を飲み込んだ
門脇町で珠つなぎのように渋滞している車にも津波が迫り、拡声器で「逃げろ」と叫んだが、次々とのみこまれて
しまった。

流されていく家に人影も見えた。自分の足元までがれきとともに津波がきたので、恐怖を感じて後ずさりし、社員らを
さらに高台の門脇中、石巻中へ避難させた。家族や家が無事か確かめに行きたいという社員もいたが、2次災害
を避けるため泣く泣く制した。

妻(55)と長女(27)は全国大会に出場していた硬式野球部の応援で東京へ行っており、地震直後に携帯電話で
安否確認ができていた。住まいも高台の社宅だったため、家族と家の心配をせずに済んだのは恵まれていたのだと
思う。

自分は南光町に残り、逃げ遅れた人がいないか見て回った。薄暗くなったころ、南浜町の火災発見現場に遭遇した。
津波で流されてきた住宅のガスコンロから、30センチのほどの火が上がった。「今のうちに消せれば」と思うが、がれき
に近づけない。炎が周囲に燃え移り、ガスボンベが爆発する音が響く。木だけでなくゴムや金属の焼き焦げる臭い
が立ち込めた。一帯が火の海になるまで、時間はかからなかった。

11日の夜は、避難所の門脇中、石巻中近くのハローワークに身を寄せ、12日、工場ハウスに対策本部を立ち上げた
まず避難している社員やその家族ら約2,000人の食べ物。台所、発電機、宿泊施設もある施設だったが、肝心の
米が5キロしかない。一口サイズのおにぎりにしたが、できたのは200個。男性陣には我慢してもらった。

12日から、社員で班を組み工場へ状況把握に向かった。敷地内は流れてきた家や車、がれきが2メートルも
折り重なっていて足の踏み場もなかった。

社員から「がれきの中に髪の毛のようなものが見える」「腕のようなものが見える」という報告を受け、遺体かどうか
確認しに行くのは私の役目だった。遺体なら自衛隊へ連絡。津波に流される人たちを目撃しただけに胸が締め付け
られる思いだった。

後日、敷地内で遺体で見つかった方の遺族が、仙台から訪ねてきたことがあった。どの辺りで見つかったか知りたい
という。その遺族が1週間ほど毎日工場のそばへ来て、手を合わせていた姿は忘れられない。

工場敷地内のがれき撤去は、7月末までかかった。震災の約10日後、自衛隊が約30人態勢で来てくれた。重機と
トラック3台ずつ持ち込んで、1週間がかりで人が通れる道をつくってくれた。多い日には約1,500人を動員しての
社員による撤去作業もスタートした。

遺体がある可能性を考慮し、作業は慎重に進めた。各部署が連携して、手作業でがれきを撤去していく。4月中旬
ごろ、ようやく車も通れるほど片づいた。毎日会議を開き、作業の進行具合によって片付ける場所などを決めていった。

8月10日、ようやく工場の一部再稼動にこぎ着けることができた。煙突から煙が上がるのを見た時には「これで石巻
工場は復活だ」としみじみ感じた。

休みなどで出勤していなかった社員5人が犠牲になったのは残念だが、工場内にいた人間は全員無事だった。
震災後の混乱期も、給水班、買出し班、見回り班などに分かれ、組織で協力して乗り越えることができた。

今は高台の施設に社員らが3日間食いつなげる量の非常食と水を備蓄するなど、教訓を生かした備えをしている。
この震災体験を語り継ぎ、風化させないことが使命だと思っている。



以上・・・


地元紙 石巻かほく 2012.3.2日付け 私の3.11      日本製紙石巻工場から避難、復旧活動
     社員1306人高台誘導 遺体考慮しがれき撤去 総務課主任 村上義勝(49)さん、から。。
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2012-03-05 [あまり美しくはない風景]

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        震災翌々日の朝の石巻市立釜小学校、の校庭。 長靴が抜けなくなるくらいヘドロが積もってました。



6年生を担任し、6時間目の授業(学活)をしている時でした。1年間の作品を整理している最中に、今まで体験した
ことがないとてつもない強い揺れに襲われました。「机の下に潜りなさい」。すぐ、子どもたちに指示しました。

間もなく、黒板脇にあったテレビが落ちましたが、子どもたちにけがはありませんでした。「キャー」「怖い」。
教室(4階)内はざわついていましたが、「大丈夫」「大丈夫だ」と励まし合う声も聞こえました。私は教室の真ん中に立ち落ち着くよう呼びかけました。

窓ガラスには、ひびが入りました。揺れが収まった後、廊下に並ばせ小走りで校庭に向かいました。廊下は通路わきの
棚の上から落ちた教材などが散乱しており、それをかき分けるようにして避難しました。

校庭では他の学年の子どもたちが点呼を取っていました。私も子どもたちを座らせ、点呼を取りました。そのうちに
余震があり、防災無線から「大津波警報発令」の情報が流れていたように記憶しています。

校庭にいる間には、何人かの保護者が迎えに来たので引き渡しをしました。訓練をしていましたので、スムーズに
できたように思います。しばらくして、体育館に移動。そこでも何人か親に引き渡しがありました。

その後、校舎に戻るよう校長から指示があり、校舎の2階以上に移動が始まりました。体育館から校舎に向かう途中
校舎西側と正門方向からじわじわと波が押し寄せてくるのが見えました。

海岸から距離があるこの場所に津波が来るなんて信じられませんでしたが、あっという間に水位が上昇し始めました
同じ学年の男性教諭と「3階へ行きましょう」と話し、3階まで避難することにしました。

3階のベランダから外を見ると「助けて」「あそこに人がいる」という声が聞こえました。見渡しても見つけることができま
せんでしたが、別の先生が「車の中に人がいる」と正門付近で助けを求める人を発見しました。

「何とかしなければ」と思い、外に飛び出しましたが身長174センチある私の首あたりまで水位があり、寒さと恐怖感から
いったん引き返しました。

すると別の先生たちが図書室の本棚(約2メートル×80センチ)を゛救助船゛にして向かいました。車の中には2人の男性
が閉じ込められていました。1人ずつ本棚に乗せ、先生は水に漬かって校舎まで30~40メートルほど引っ張ってきました。

1人ずつ消火ホースを体に巻き付け、10人ほどの職員が力を合わせて2階のベランダまで引き上げました。とにかく
必死でしたので、どれくらいの時間が掛かったかは覚えていません。長く感じたことだけは記憶にあります。

2人の男性は寒さで震えており、声を発することもできない状態でした。すぐに保健室に搬送し床に布団を敷いて
寝かせ体をさするなどしました。石油ストーブが1台あったので、なんとか救うことができました。

保健室をはじめ、校舎内には既にけが人や近所の住民らが多数避難していました。その数は1,000人を超えて
いました。

子どもたちも多数残っていました。夜間は各教室をこまめに回り、避難者らに「大丈夫ですか」と声掛けして歩きました。
その時「身重の女性が破水しています」という声を耳にしました。

すぐその女性を抱え、保健室に連れて行きました。たまたま避難者の中に看護師さんが2人いて、養護教諭と協力して
対応。日付が変わった時には元気な赤ちゃんが誕生しました。混乱している中、で、生命誕生という喜ばしい出来事は
われわれ教職員や避難者たちの心を和ませてくれました。

後に、自分が担任するクラスの児童2人(男女1人ずつ)が津波の犠牲になったことが分かり、涙があふれました。

水が引いた翌日は正門付近で、教職員が遺体の収容にも携わりました。生死を目の当たりにした「3.11」。
生涯忘れることはできません。


以上・・・


地元紙 石巻かほく 2012.2.22付け 私の3.11   石巻市大街道西2丁目の校舎で被災 
本棚・救助船代わり 浸水の校庭、職員結束 石巻市釜小教諭・庄子信孝さん(39)から。。


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2012-03-04 [あまり美しくはない風景]

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ここは前回の記事に出てきた女川町立病院、の駐車場です 海抜にして20メートルくらいはありますかね・・
高台にあるこの駐車場に避難されて、で、ここで津波にのまれた方も居たようです
ここに写っている方のように海に向かって駐車していた方は異変に気づき、車を捨てさらに上へ避難されたようですが
たまたま背中を海に向けていた方は、気がつくのが遅れ、そのまま車ごと波間に消えていったそうです。。


生と死の分かれ、それは偶然としか言いようがない気がします。たまたま・・ というか・・
私は生き残ったことに大きな理由はないと常々思っている理由はそこなんです。。 
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2012-03-03 [あまり美しくはない風景]

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石巻市・牡鹿半島にある御番所公園内の大木が地震による揺れで倒れていた。 
発表では石巻市は震度6強ということだが・・
少なくてもここ半島は震度7以上あったのだと思う。いままで何発もの6強を体験してきたが倒木は見たことがない。
ちなみにこの公園の東には、海を挟んですぐに目の前に金華山という島があります。金華山は今回の地震で
東に20メートルほど移動したらしい。一度の地震での移動量としては過去最大だそうです。もしも、仮に島に
震度計があったら震度8以上の揺れがあったのではないかと思います。



地震発生時、船で谷川湾にいた。突然突き上げるような衝撃を受け、体が30センチほど跳ね上がった。あちこちで
崖崩れが起き、高圧線が火花を散らした。

大きな津波が来る-。すぐ港に戻ったが、岸壁は大きく破損していた。岸壁では妻の美佐子(52)が、もう一隻の持ち船
の掃除をしていた。妻に義父(76)を託し、船を守るため急いで沖をめざした。

家は港から穏やかな坂を上がった所で、海抜6メートルほど。「まさかそこまで津波は来ないだろう」と高をくくっていた。

午後3時、港を出た。各浜から計50隻ほどの船が続々と出てきた。「なるべく沖へ」。南にある金華山と、北に位置する
足島の間を抜け、太平洋へと全速力で走った。

両島を結ぶラインまであと少しと迫った時、金華山の北側と足島の南側に津波が現れた。二つの津波が徐々に
間隔を狭めながら、向かって来た。「二つの津波が一つになったらやられる」。

時間との競争だった。私の船は先頭で津波の間を抜け、僚船も1隻、2隻・・と津波の壁の間を抜けた。しかし最後の
2隻が、一つになり大きく盛り上がった波にのまれた。その後、その船の持ち主が犠牲になったことを知った。生死は
まさに紙一重だった。

金華山沖に出た船は、浜ごとの仲間とまとまりながら、円を描くように航行、第2波、第3波を耐えた。谷川浜からは
8人の仲間が船を守っていた。

燃料を満タンにしたばかりで、真水のタンクも満杯。缶ジュースも2ダース積んでいた。万が一、エンジンが故障し
漂流した場合の備えと考えていた。機関室に交代で入り、暖を取り、ぬれた服を乾かした。

12日午前0時過ぎ、港の近くに戻った。集落の方からさまざまながれきが流れてきた。津波が浜を襲ったのは間違い
ないと思った。それまで声を掛け合い、恐怖に耐えてきた仲間の口数が少なくなった。全員が、家族の行方を案じて
いた。私の長女は仙台。長男は用事で、石巻市街地にいた。家には妻と義父がいた。

若手を2人、真っ暗な浜に向かわせたが、しばらくして肩を落として船に戻ってきた。「何もない」「誰もいない」。
絶望感が漂った。

長い夜が明け、朝6時に浜へ。そこには見るも無残な古里の姿があった。何もかも無くなっていた。後で知ったが
牡鹿半島で最も多くの犠牲者が出ていた。震災前、167人の住民がいたが、津波で24人の命が奪われた。
62軒の家屋で残ったのは高台の1軒のみだった。

「お-い、誰かいないか」と大声を上げた。すると数人が丘の上に姿を見せ、その後ろから女性が次々と現れた。

そこに知人の男性が現れて「美佐子はおれが助けたからな」と、妻の名前を挙げた。「生きているのか」にわかには
信じられなかった。

自宅にいた妻と養父は津波にのみ込まれた。妻は木にしがみつき、強い引き波に何とか耐えたが、がれきに体を
はさまれ、身動きできなくなった。何度も助けを呼んだ。誰にも気づいてもらえず、徐々に気力、体力が衰えた。
これが最後かもしれないと「助けて」と声を振り絞ったという。それを近くを車で通り掛った集落の人が聞きつけ、男性
4人が妻を引きずり出してくれた。足をけがしていたため、隣浜の屋内施設で応急手当をしてもらったという。

義父は沖に流され、50日目に遺体で発見された。妻は実の父が津波にさらわれるのを見ており、いまだに心の傷は
癒えていない。

私は歩いて戻ってきた長男と再会。妻の無事を確認した時には心からほっとしたが、義父が津波にさらわれたと聞き
同時に無情さを感じた。

高台にあった女川町立病院は1階まで津波が押し寄せ、治療器具を失っていた。妻を石巻赤十字病院に運んだが
左の足の甲を30針も縫う大けがだった。

震災前はホヤとホタテの養殖をしていた。今は復活に向け、作業をしている。谷川浜は何も無くなってしまった。
海とともに生きていくしかないが、住居は高台にしたいと切実に思う。


以上・・・


地元紙 石巻かほく 2012・2・26付け 私の3.11
石巻市谷川湾内で被災 津波の壁に冷や汗 無残な浜を見て絶望感 漁業・渥美克之さん(53)から。。


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2012-03-02 [あまり美しくはない風景]

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東松島市大曲(おおまがり)付近のスーパーマーケットの駐車場   買物中の方も従業員も大勢亡くなりました。



仙台に向かう途中の三陸自動車道で地震に遭い、松島海岸インターチェンジで降りて石巻に引き返しました
東松島市で国道45号から海岸に向かいました。海に近い北上運河沿いの県道が自宅への近道だったからです。

ラジオが大船渡で10メートルの津波と伝えていました。でも津波が石巻に到達するまでまだ時間があると思い
ました。それに10メートルの津波というのも、ぴんときませんでした。早く自宅に帰りたい一心だったんですね。

道は定川橋に近い交差点付近で渋滞していました。そこへ海側から人が大勢走ってきました。「どうして走っているの」
と思いながら横を向くと、土色の大きな波が壁になって迫ってきました。

もう逃げようがありません。「え、私、死ぬの?」と独り言を口にしました。次の瞬間、車が浮いて海と化した水田に
流されていました。人や壊れた住宅の材木、車などが流されていき、プロパンガスが「シュー」とうなり声を上げて
いました。死を覚悟し、バックから手帳を出して家族宛にメモを書きました。

舟に乗り移る

外を見ると、人が乗った舟が近づいてきました。車のエンジンも電気系統もまだ動いていたので、窓を開けて助けを
求めました。でも舟は動力がなく、進路が定まりません。私のほうは、近くを流されていく人を助けようと、マフラーを
ロープ代わりに投げたのですが、届きませんでした。

そのうち舟が運よく私の車のボンネットに寄ってきたので、コートを持って乗り移りました。舟には一家4人がいました。
その後、男性3人と3歳の女の子(あんどう・かりんちゃん)を救出しました。

舟は渦巻く水田を回され、引き波で定川橋の方に流されました。橋のたもとが高く、トラック1台と人が数人見えました
水面に出ている木材などをつかんで舟をそちらに向けました。

橋の上へ避難

橋に着くと、橋の上にいた人たちがロープを下ろし、私たちを助け上げてくれました。女性と子供を中心にトラックの
運転席に乗せてもらいました。運転手はいませんでしたが、運転席の後ろに毛布や布団、カーテンがあったので
みんなで使わせてもらいました。

運転席には7人入りました。ここで私は皆さんに自己紹介しました。ファシリテーション(集団の活動が円滑に進むように
支援する手法)のボランティアをしているので、それを生かすときと思い、皆さんの名前を聞きました。それでみなさんと
コミュニケーションが取れるようになりました。

橋桁に並行して建造中の大きな船が2隻打ち寄せられていました。外にいた男性が1隻に天井や壁がある部屋を
見つけ、みんなでそこに移りました。ラジエターがあり、スイッチを入れたら動いたので、それで暖を取ることができ
ました。でも狭くて一晩中立ちっぱなしでした。

翌日トラックの運転手の男性Aさんが戻り、その場にいた人のうち6人が一緒に避難することになりました。
カーテンやロープで子供服と背負子を作り、かりんちゃんに着せてAさんがおんぶしました。がれきの上を歩き
松島基地方面に向かいました。私ははだしだったので、一緒にいた人が交代で靴を貸してくれました。

がれきの上を歩くのは困難を極めました。しかも3歳の子どもを背負っていては、男性でも大変です。途中、停車して
いたトラックの中に女性がいたので「(救助関係者を見つけたら)必ず救助を要請するから」と約束し、かりんちゃんを
託しました。

松島基地入り口付近で一緒にいた男性の知り合いに出会い、車に乗せてもらって避難所の東松島市コミュニティ
センターに行きました。避難所でAさんが、かりんちゃんや女性の救助を要請しました。その日は対応できず
救助は翌13日になったそうです。

震災当日の夜、かりんちゃんが泣き出しそうだったので、「頑張ろう」と声を掛けると、ぐっとこられていました。
また会えたら「よく頑張ったね」と言ってあげたい。私も大勢の人に助けられました。その人たちにあらためて
「ありがとう」の気持を伝えたい。


以上・・・


地元新聞 石巻かほく 2012.2.10付け  私の3.11  
東松島市大曲の北上運河脇で被災  渋滞の道路に大波 車ごと流され死を覚悟 主婦・佐藤恵子さん(54)から。。
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2012-02-29 [あまり美しくはない風景]

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橋の一部が津波に流された新北上大橋。。 
80人あまりの児童と教師が避難先のこの橋を目指し途中で津波に飲まれました。。


石巻市河北総合支所2階で確定申告を済ませた時だった。ものすごい横揺れに「ただ事ではない」と、津波の襲来が
頭に浮かんだ。

 
外に出て仕事用のトラックに飛び乗る。北上川左岸の県道は中野牧野巣前で崖崩れ。北側の皿貝川沿いの道路に回り
新北上大橋まで来た。橋の上で余震に遭い、トラックごと揺さぶられたが渡りきる。

迫りくる白波

釜谷の道路は混んでいなかった。途中、長面(ながづら)の長女(38)の嫁ぎ先に立ち寄ったが、だれもいない。自宅の
ある尾崎へ急ぐ。左を見ると沖から白波が立って向かって来た。尾の崎橋を渡ると、向こう岸が橋から40センチぐらい
沈下している。ガタンと車体にショックを受けたが、構わず行く。

「津波が来たぞ」と叫びながら、トラックで行くと家に父が残っていた。時間が無い。「後ろの山へ逃げろ」と叫ぶと、裏山のコンクリート壁に取り付けられた非常用はしごを登って逃げるのが見えた。

「尾崎老人憩いの家」近くでトラックを止め、小高いところに続く非難道へ。住民約60人がおり海の様子を見ていた
しかし、100メートルほど離れた民家に、寝たきりの女性が取り残されていることがわかり、男4人で救助に行く。布団ごと丸く縛り、小高い場所にある海蔵庵という寺に運んだ。

長面浦では真っ黒な水が北東から来て、長面の家々をのみ込み、「ゴォー」「バリバリ」と音を立ててがれきとともに南側の山にぶつかる。すると跳ね返ってきてがれきと一緒に盛り上がるように迫ってきた。

その時、非難道のすぐ下の駐車場からコンコンと音がした。止めてある車内に高齢の女性が取り残されていた。車は
1度波にのまれたが、間もなく浮き上がってきた。「まだ助かるかもしれない」と、近くにいた女性の家族らと3人で水に入る。車まで泳ぎ、リアガラスをハンマーで割った。女性を車外へ引っ張り出したが、既に亡くなっていた。海蔵庵に運んだ。この人が震災時の尾崎にいて亡くなった唯一の人だった。

眠れない一夜

日が暮れ、みんな海蔵庵本堂に避難した。石油ストーブ2基をつけ、10人ずつかたまって毛布をかぶるが、余震が続き
寝るどころではなかった。私は避難道でたき火しながら、午後10時ごろまで海の様子を見張った。暗がりの中、長面の方
から、叫び声がしたり、懐中電灯か何かの光が見えたりした。

2日目、明るくなっても、海はまだ渦を巻き、尾の崎橋の向こう岸は津波にえぐられ、海面が広がっていた。尾崎は孤立していた。水が引いた場所を選び、がれきをかき分けて、誰かいないか探して歩いた。長面浦の奥へ行くと、がれきの屋根の上に人の姿。大声で叫ぶと手を上げ下げした。だが途中には水に浮いたがれきの山。エンジンが壊れた小船を発見し、消防団員と4人で、棒や板きれでこいだ。長面の男性(70)だった。「大丈夫か」と声を掛けるが、衰弱して声が出ない。一晩中そこにいたのだろう。近くの岸壁に運びたき火に当たらせた。さらに辺りを見回すと遠くで何かが動くのが見えた。がれきに煙突付き屋根があり黒っぽい人影。今度は船外機付きの船を見つけ救助に向かう。

途中で水面に幼児の遺体があった。船に揚げ、顔を見ると長女のところの孫(5)にそっくりだった。結果は長面の別な
子だったが、そのときは孫と思い込み抱いたまま泣き崩れてしまった。

屋根の人を思い出し船を進める。長面の20代の女性で足が凍傷になりかけていた。近くの岸に消防団がたき火して
待機していたので上陸させて体を温めさせた。一連の救助は、そばにいたみんなの協力なしにはできなかった。
男の子の遺体は海蔵庵に運び、大事にして一晩一緒に過ごした。

3日目。長面にヘリが着陸し、救援物資が届き飯野川への住民避難も始まった。その中で知人から孫の生存を知らされ
遺体は別人とわかる。あの日、孫は祖母と長面の山へ逃げたと、後で聞いた。

4日目、市内の馬鞍の親類宅にいた孫を抱き上げ、「良かった」とまた大泣きしてしまった。


以上・・・ 地元新聞・「石巻かほく・2012.2.29日付け/私の3.11 
  石巻市尾崎の自宅で近くで被災 長面の家々を襲う水 仲間と協力し救助活動 漁業・西村久治さん(63) から。
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2012-02-28 [あまり美しくはない風景]

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街中はどこも水浸しでした  歩くのが困難なくらい水位があったので一段高い線路の上を歩いて移動もしました

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私は長靴があったのでまだあれでしたけど・・  大概の方は普段靴で線路を歩いてました
気温はとても低く、水温もちゅめたいほど冷たかったのです・・
余りに冷たすぎて、長靴を通しても体が冷えてきました  途中なんども○ンコをしたくなりました(笑)。。


テレビのCMではなんども「・・お祈り申し上げます」を言ってます 
まさかね、自分が祈られる立場になるなんて夢にも思いませんでした
しかし連日、こうも祈られていると・・ 祈りなんてまるで通じないもんだなぁと思ったのも事実で・・
半月も経ったころから「お祈り申し上げます」CMが減ってきて・・ 励ましのCMが増えたのは単純にうれしかったです


D50 シグマ3014 JR仙石線陸前山下駅付近  人に祈られたことって経験あります? 不思議な気分よ。。


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